「単音と層音(騒音)」

安藤圭汰エッセイ-2020年8月18日

–《皆肉眼で確認出来ないものを当たり前に認識し、享受していると感じます。2020年の現時点で、電波やVirusは視力では認識出来ないですが、その存在は胡散臭いモノであると感じている人は少ないのではないのでしょうか。》–

話を一段飛ばして…

そもそも小さい自身の身体で認識できるモノの何と少ないのかと、時々全貌の余りの余白を想像するたびに嫌な気持ちになりますが、その認識こそが視えていない証拠なのでしょう。

へこたれずに自分の身体を溶かして小さな個を無くす作業を、ひたすら絵という形で昇華させているのかもしれません。

絵は形を強固にするために、形の外側や個の境界線をアヤフヤに持っていくこともするため、個を強化するために個を無くすという禅問答ですね。

私の意識として、絵が昇華されていくと単音になり、さらに単音が昇華されていくと層音(騒音)になります。

単純なmatière。

具体化させるに至る経緯。

材料の美しさや複雑さ。

日常や神的体験を淡々と記録する。

社会や仕組みの批判、風刺、賛美を問いかける。

それらのどれかを複合させるもしくは一つを深く掘り下げることで、はじめて層音(many layer)に至るのかもしれません。

そうして一つの絵に凝縮して層を一つに視ることで、肉眼を超えた何かを享受できるのかもしれないですね。

一瞬で濃厚なJAZZを堪能出来るかのような贅沢さがあり、さらに時間をかけて層の一つ一つに至れる楽しさもあり、本当に絵とは良いものだと思います。

まぁ究極は雑草や石や虫などを視て、延々堪能して生涯を過ごしてみたいです。

身体が有るうちに、絵が超自然のような層に至ることを希望して禅問答を続けるのみですね。

profile

安藤圭汰

1992年 神奈川県川崎市生まれ
2013年 第3回ドローイングとは何か「大賞」ギャルリー志門(東京)
2017年 絹谷幸二賞推薦
2019年 artist in residents&solo exhibition sangkring art space&lorong sangkring indonesia yogyakarta

profile/安藤圭汰

1992年 神奈川県川崎市生まれ
2013年 第3回ドローイングとは何か「大賞」ギャルリー志門(東京)
2017年 絹谷幸二賞推薦
2019年 artist in residents&solo exhibition sangkring art space&lorong sangkring indonesia yogyakarta