「両性具有の支配者と動く奴隷」

自らが捕食や安全のために動く必要が無く、悠久の時を生き続ける存在は石なのではないかという話を、以前イラストレーターの方と有楽町で飲みながら議論したことがあります。

石は生物なのか無生物なのか、それとも成れの果て、つまり死骸なのか。という話に進み、しかし確かに「石には意思がある」という結論に至りました。

石には石そのものの意思(凝固の歴史)に加えて外側の意思も入り取り込むことで、邪悪にも高潔にもなり得、さらにその意思に触れる(物理的)ことにより意思=石の力が触れた対象や周りに入り込むため、意思のある石は危険でもあり、時に高次な生物といえるでしょう。

そのことを思い出しながら現在2020年5月、ジャガイモを育て、茂った葉を何気なく見た時に大変な発見をしてしまいました。

ジャガイモの葉に人間と変わらない無数の産毛が生えていたのです。

その時に確信したのは人間は植物の下位互換、つまり人間より遥かに高次元的生命である「石=意思」と同じ頂に「植物」も居るということです。

何故なら植物というものもまた、自らは根を地中に張り巡らせ、自身は動くことなく周囲の環境が食事やその他一切を隷従させることに成功しているからであり、さらに自身が陰陽備えた中庸の存在、つまり1柱で完結する両性具有の性質を持っているからです。

さらに植物の奴隷である動物や人間が食物連鎖の中で糞尿を出し、死して分解されていくことで、より植物の地位を盤石なものにしていくという循環が成り立っています。

その恩恵として、衣食住娯楽、酸素やその他一切を奴隷に使わせるアメも忘れません。(トウモロコシは今の人間社会の大部分を構成するなど)

安藤圭汰エッセイ-2020年5月

瞑想というものも、自我を真我(側を無くす)に近づけていく作業により、植物や石の言葉を受信しやすくすることなのかもしれません。(植物を伐採し、コンクリートなどで土壌を殺そうと反発することは主である植物の声を聞けていないということになるのか…またはそれすらも植物の意思であり、より自らの地位の発展の為バランスを取ろうとしているのか…それは想像では測れないです)

つまり自らを真我におく行為は植物との境を曖昧にしていくためではないかと日々感じます。

余談ですが、トマトやトウモロコシのDNAは人間に近いとのことです。いや逆に、人間のDNAは植物に近いということなのかもしれません。

創造主は、もしかしたら常に身近に存在するという可能性は大ですね。

その高次も低次も入り組んだ地球上で、生命たちが重力に逆らい太陽(光)に向かって伸びることを考えたら太陽の高次は石や植物でさえ上回り、現在の私の地点では測ることもできません。

「 よだかの星」の意思には、測ってか測らずか、身を焼きながらも小さい存在のよだかが高次に向かって突き進む、まるで蛍光灯(擬似太陽)に向かって集まる虫のような本能そのものが、私達には瞑想や沐浴、立って歩く、というミクロとマクロ一体の縮図も入っており、とても鋭い確信をついているように思います。

profile

安藤圭汰

1992年 神奈川県川崎市生まれ
2013年 第3回ドローイングとは何か「大賞」ギャルリー志門(東京)
2017年 絹谷幸二賞推薦
2019年 artist in residents&solo exhibition sangkring art space&lorong sangkring indonesia yogyakarta

profile/安藤圭汰

1992年 神奈川県川崎市生まれ
2013年 第3回ドローイングとは何か「大賞」ギャルリー志門(東京)
2017年 絹谷幸二賞推薦
2019年 artist in residents&solo exhibition sangkring art space&lorong sangkring indonesia yogyakarta