【ZINE】家で楽しむ展覧会ー峰松宏徳個展「No Where Over The Rainbow」展示

2020年3月21日~4月3日の期間で開催された峰松宏徳個展「No Where Over The Rainbow」の展示風景写真をまとめたZINE。

ステイトメントなどは省き、写真のページを増やしたZINEです。

峰松宏徳個展
「No Where Over The Rainbow」
2020年3月21日~4月3日
(新型コロナウイルス拡大防止の為、福岡県に緊急事態宣言が発令された為DM、フライヤーに記載されている日程に変更あり)
Artas Gallery

展覧会によせて

今回展示される作品は日本に帰国してから描きためていたものです。

祖父母が亡くなってから10年以上空き家になっていた,、山の中の雨漏りする半分崩れ落ちた天井の下、誰にも見せる予定も無く描き始めた作品群です。

ただ、暗い気持ちになっていた訳ではなくて、なんだか新しい環境にドキドキしていた記憶がまだ新しく鮮明に残っています。

予定されていた時期から前倒しとなる開催となりましたが、タイミング的にはArtas Galleryがどの様な人間によって、どの様な考え方をもって運営されているかのご紹介となる展覧会になればと思っております。

峰松宏徳とは

峰松宏徳
1982年生まれ
2004年多摩美術大学油画専攻卒業
2005年Surrey Institute Of Art & Design (UK) デザイン過程修了
2006年から2017年の11年間、ドイツ・ベルリンに拠点を置き、アーティスト活動を行いながらキュレーターとしても活動。
2017年の日本帰国後は九州芸文館(福岡)、粕屋町歴史資料館(福岡)、だざいふ遊園地(福岡) などでキュレーター、遺物実測士、遊具整備員などの勤務を経て、現在はArtas Galleryでアート・ディレクターとして勤務しながら制作活動を行っている。
ベルリン、ロンドン、ニューヨークなどで展示、受賞歴多数。
ヘルタ・ベルリンと浦和レッズのサポーター。

平面作品、立体作品は“われたメガネ峰太郎”と“獄卒”、写真作品は“ばかおばけ”名義でも発表している。理由は批判された時に別人格になれる為。写真作品は心霊写真から影響を受けて制作されている。作品のモチーフとなっている、おばけやゆうれいは引っ越しが多かった子供時代に、ふわふわとした自分を感じる事が多かった事から、自分はゆうれいみたいと思った事がきっかけで落書きに現れたものが、そのまま大人になってからも現れ続けている。

僕とサッカー

唐突かも知れませんが、僕はサッカーが好きです。

僕がまだ高校生の頃は、駒場スタジアムという浦和レッズのホームスタジアムから歩いて行ける場所に学校があり、周りもサッカーといえば浦和レッズで、同級生の女の子も浦和レッズの話をしたら選手の名前は大体知っているという感じでした。

ただ僕はバスケ部でバスケットボールをしていました。
サッカー部の友達と授業中に98年のフランスワールドカップの話を眠そうな顔でしていたのをよく覚えています。

僕は体育館でバスケットボールをしていましたが。
恐らく、なんとなく、想像がつくかもしれませんが、僕は下手くそでした。運動音痴です。
サッカー部の友達とワンオンワンをしてワンゴールも出来ずに負けるくらいには下手でした。
一度負けた腹いせにそいつを蹴ってお互い手が出るケンカに発展した事もありますが、ほんと思い出すと顔が真っ赤になります。みんなに謝りたい。

当時はまだ僕にも下手くそなりに若い血潮が流れていたのでしょう。
バスケットボールはまあ、いいとして、
サッカーを観にスタジアムに行くようになったのはベルリンにいる頃でした。
ヘルタ・ベルリンの試合を一緒に行く予定だった友達が急用で行けなくなってチケットが余っているから行ってみない?という友達の誘いがきっかけでした。

確か、その時の相手チームの事はよく覚えていませんが、ボルシア・メンヘングラッドバッハ戦だったと思います。
ヘルタの選手もグラードバッハの選手も1人も知りませんでした。
オリンピアシュタティオンベルリンの門をくぐって、ゲートからピッチが目の前にひらけた瞬間寒さを忘れたのを覚えています。本当に美しい場所だと思いました。

それから狂った様にせっせとシャツやフラッグを買い、2部に落ちても月曜日のナイトゲームでもマイナス20度になっても行っていました。
僕がサッカーというドイツ人との共通言語のコミュニティの中に入る事が出来たのです。すっと入れた瞬間でした。

その後、日本代表の細貝選手や原口選手も加入して日本人ブームもあり、ヘルタがELのプレーオフに奇跡的に出た時に観に行ったり(相手はスウェーデンのチームで、知らない間に背中にそのチームのステッカーを貼られていた)、ウニオン・ベルリンの試合もこっそり2度ほど観に行ったり、テニスボルシアベルリンの試合もこそこそ観に行ったりしていました。

ベルリンは人種や性別、経歴など全てが関係無い社会でした。当時は。今も、だと信じています。
そんな中、なかなかドイツ人主体のコミュニティの中に入り馴染むことが出来なかったのですが、ヘルタベルリンというチームを通してドイツ人が大切にして守ってきた文化圏の中に入れてもらえる事が出来たのです。

この経験は本当に大きかったし、本当に幸せな時間でした。

今は西日本中心に行われる浦和レッズのアウェーゲームを、さいたま第七艦隊というサポーターグループの体をとって、観に行ける範囲で行っています。